ろう者の母の戦争体験を伝えたいー。前橋市の牧山定義さん(59)から投書が届いた。自身も耳が聞こえない牧山さんが「代弁者」として語る、ろう者の戦争体験を聞いた。
聞こえぬ警報苦しみ戦後も
◆ガラス割れ気付く
1945年3月10日、牧山さんの母・昌子さん(当時10歳)は、祖父の小泉釜太郎さん(同42歳)と一緒に東京・荒川の宿にいた。前日、千葉県の自宅から食糧をもらうために東京を訪れていて、一晩泊まることになったからだ。
就寝中、突然、飛んできた石で窓ガラスが割れ、目が覚めたという。割れた窓から外を見ると、逃げ出す人々の姿が目に入った。約10万人が犠牲となった東京大空襲に巻き込まれたのだ。釜太郎さんも耳が聞こえなかった。
石は、空襲警報が聞こえないろう者の親子を気遣って、異変を知らせるために投げ込まれたものだった。2人は着の身着のまま飛び出したが、街は炎で赤く染まり、逃げ惑う群衆の中ではぐれてしまった。焼夷弾の油脂が降りかかり、昌子さんは恐怖で足が震えたが、「前だけ見て走れ」という父の教えを信じて風上に向けて必死に走った。もしもの時の集合場所として決めていた上野公園までたどり着き、西郷隆盛像の下で釜太郎さんと再会できたという。
日が昇り、親子で焼け野原の街を歩いた。昌子さんは下着姿で、持って帰るはずのサツマイモや大切にしていた家族との写真は灰となった。
◆周囲から差別
ろう者の苦しみは、空襲などの物理的な恐怖だけではなかった。大空襲後、昌子さんの家に健常者の親戚が疎開してきて、一緒に暮らすことになった。親戚はろう者には分からないと思ってか、昌子さんに向かって「わからずや」などと言ったという。昌子さんはその口の動きやしぐさから、内容を読み取れた。食事の量も勝手に減らされた。差別への悔しさが募った昌子さん親子はその境遇に耐えかね、慣れ親しんだ家を出た。
牧山さんは戦後、昌子さんから手話で度々、空襲などの体験を伝えられ、戦争は残酷で悲惨だと教わった。昌子さんは2007年に亡くなるまで、振動で空襲を思い出すからと、打ち上げ花火だけは見ることはなかったという。
一方で、昌子さんは、「誰しもが生きるのに必死な時、障害者が助けてもらうのは当たり前のことではない。障害があっても、自分の力で生き抜かないといけない」とよく話していた。取材を手伝ってくれた牧山さんの妻、富士江さんは、「戦時中の経験があったからか、周囲に助けてもらった時、何倍ものお礼をする人だった」と昌子さんのことを思い返していた。
◆ウクライナ重なる
牧山さんは、ロシアのウクライナ侵略などが起こる中、ろう者の戦争体験を伝えたいという思いが強くなり、投書をつづった。今年2月にはウクライナから大分県に避難しているろう者の男性と面会し、「聞こえる人よりも、周囲の気配や振動が気になり、眠れぬ夜が続いた」という男性の言葉に、昌子さんが語った恐怖を重ねた。
「母が手話で語る戦争もリアルで恐ろしいものだったんです」。「戦闘機」から「爆弾」が落とされる空襲の様子を手話で表現する際、牧山さんは眉をひそめ、悲憤に満ちた表情を浮かべた。戦時下を必死に生き抜いた昌子さんの姿を忘れず、これからも障害者の体験を伝え続ける覚悟だ。(中尾敏宏)